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飯倉先生との出会いは、今から26年前になる。長男が生まれて1歳頃から咳きがひどくなり、風邪かなと思い近医に通い治療していたが一向に改善せず咳き込む頻度がひどくなる一方であった。その頃たまたま長男と同じ保育園にお子様を迎えにきていた先生が私の息子の咳きを聞き「この子の咳きは普通の咳きと違うから僕の病院に連れてくるように」と保母さんに言伝えられ、この事が先生とお知り合いになるきっかけであり、国立小児病院で飯倉先生に治療を受けるようになった。
病名が「アレルギー疾患による気管支喘息」であると聞かされたが、当時、お恥ずかしいことに「アレルギーとはどんな病気」なのか何もわからず、夜中に咳き込む息子を膝に抱え、おろおろと背中をさすり夜明かしし、病院に朝一番で駆け込み点滴治療を受けることが毎日であった。
このような日々が続くなか、外来で親の会があることを教えていただきすぐ入会し夫婦で「一からアレルギー疾患について」勉強しはじめ、息子の喘息の治療に専念するようになった。月1回の勉強会以外にも親子体操、家庭ではハウスダストの除去に以前より力を入れ掃除に取り組んだ。食物除去に努め卵、牛乳、大豆を除いた食事作りを夫婦で協力し実践した。しかし4,5歳の頃が一番ひどく年に7〜8回入退院を繰り返していた。息子の喘息は難治性のためその後発作があっても、なくても週2回の点滴治療をすることになった。
親子体操、週2回の点滴治療と会社を休むことがしばしばであった。この時期外来で先生に「七五三の行事は何か」と質問されたことがある。「女の子は三歳、七歳、男の子は五歳で体が大人にかわるので昔からお祝いしたんだ。もう少しで、良くなるから頑張れ」と励まされたことを今でも覚えている。
その後は、親の会の役員を先生から薦められ息子の喘息の治療とともに14年間、勉強会、サマーキャンプなど親の会の活動を続けるなか、若い先生方や、看護婦さん医療関係者の方々とお知り合いになり、仕事以外にも人生においていろいろな経験をさせて頂き、学ぶことができた。
先生が国立小児病院をおやめになり昭和大学の教授に就任することになった平成8年のころ「今度沖縄でドルフィンキャンプをやることになった」とお話を聞かされその下見と打ち合わせのために、その年の5月の連休に先生のお子様たちと沖縄に行ったことがある。
三泊四日同行させていただき、行き帰りの機内や沖縄でのホテルで先生やお子様たちと親しくお話や、お食事をともにし、海で遊んだことが昨日のごとく今でも思い出すことがある。個人的にも大変親しくして頂いた。
患者、医師、コメディカルの三者を結ぶ学びあいの場と考えた、アレルギートライアングルの企画を行ったのもこの時期だったと思う。常に患者一人一人のことを思い、その教育、アレルギーの社会的啓蒙を第一義と考え精力的に実践なされてきた。先生が国立小児病院に赴任し、患者教育を考え親の会を組織し治療の改善に努めてきたことは大変画期的なことであり、自らがインフォームドコンセントを実践し小児アレルギーの権威として日本だけでなく、世界レベルで活躍されてきた歴史でもあったと思う。最近は少子化に伴い少なくなる小児科医療の実態を厳しく見つめ、未来の国の支えとなる子どもたちを守るために地域医療における小児科医療の改善、対策にも力を注いでおられた。
昨年12月、先生のご指導を頂き、アラジーポット(アレルギー児を支える全国ネット)を発足、先生が顧問に就いて下さったのも、患者会の精神的、理論的支えになり共に学んでいってもらおうとの考え方からであったと思う。これからという時期に先生を失うことは大変残念の一言につきるが先生の遺志を継ぎ、これからは患者自身が患者を守り学んでいく、成長する会を組織していくことが先生に対する唯一の供養だと信じたい。合掌
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